とうとう亡くなってしまいました…。
連休明け、何とも言えないじっとりとした雨日なので事務所に。午後になってブライトリバー松本さんのBlogを覗くと勇気を出して報告されてたので…。
藤原雄一・ 享年53歳。元道楽・エヴィスジーンズ、そしてブライトリバーの藤原。僕や僕のまわりの仲間からは愛情をこめて「のりか」の愛称。数年前から体調は悪くてここしばらくは入退院を繰り返していましたが5/4に吐血しそのまま病院で亡くなってしまいました。
終息しないコロナと戦争、何とも言えない世界の状況下のせいで何か悶々としているなか迎えた連休。天候はまぁまぁよくてそれほど忙しくないかなと思っていると、いつもは月末前に来るはずの入荷が滞ってGWに入り一挙に入荷との事で怒涛の忙しさに変貌。加えてまさかのことが重なって…5/3にはがんを患っていた和歌山の老舗のバーのマスター・トランプのケンちゃんが吐血したまま病院で息を引き取ったとの事で僕も含めそのあたりの常連さんたちは終日連夜忙しくまた深夜まで飲み明かしていましたがその矢先にいきなり「藤原死んだ」との訃報。僕はお通夜やお葬式には出ない主義なのでケンちゃんも藤原も通夜・葬儀には出ずひたすら家や事務所で悲しみに慕っていましたが、幸いにバタバタと仕事があったことや連休に遊びに寄ってくれたみなさんや仲間のおかげでうまく過ごせたので…。亡くなってすぐの夜、僕はメバル釣りに出ました。急な風が吹き「にいちゃん何釣りなんかしてんの?」っと側まで来ているのりかに叱られてるかと思いながらしんみりと釣りを続けていると最後になってこの場所ではありえないサイズが釣れて驚きとともに許してくれてんのかなと?…で今日。「のりか死んだんかー?」…今日になってまたドドーっと感情がこみ上げています。あまりにストイックな性格と酒のせいなのでこうなったのもしょうがないんですがとても悲しいです。
藤原との30年…
1990年代なかば、道楽(ダンサーズ オブ ウォーターライン)が大阪北区 本庄にできたというので、当時スミス大阪支店に勤務していた25歳の僕は支店長から「なんか変な店できてるみたいやから見てきてくれっ?」っと頼まれて行ったのが最初。
店内には目をむいたキョーレツないで立ちの山根さん(30代ギンギンの山根さん、想像しただけでヤバい。)と入社すぐの松本さん。「おおスミスか?」っと山根さん。「とりあえずシーニンフJD12を3台とエビンルード、あとヒートンな?」っといきなりの注文をもらいすぐさまお付き合いが始まるわけですが、その当時僕はすでに巷のトーナメンター流行りの関西のバス事情にほとほと嫌気がさしていて、すっかり(当時はまだまだ相当マニアックだった)海のルアーやフライ釣りをしていましたが、そこはスミス営業マン=ハトリーズを愛用するバリバリ生粋のトップウォータープラッガーでもあったのでショーケースの上にあったペンシルを見て「なんやこの木のかたまり?」っと無垢な僕は山根さんに聞いた記憶が。(笑)「あのな、男が本気でこさえたらこうなるねん!」っと山根さん(笑)で僕がこの道楽(ダンサーズ)に心惹かれたのはその山根さんや松本さんの底知れぬパワーと、ハンドカービングで削られていたペンシル(のちのザラデッセ)についた「手曲げのでかいLリグ」。このパンチ力とディテール、シンプルさカッコよさがその後の道楽の快進撃を物語っていたかと思っている。
そしてほどなく山根さんと同じくジージャンにジーパン、壊れっぱなしの赤い欧州車に乗る藤原が入社し皆が知る松本・藤原のコンビが誕生。そして僕はバンド・バンバンバザールに加入すべくスミスを退社ししばらくは東京に居ながら山根さんに会いバンドメンバーの衣装提供までしていただいてたりして関西に戻れば二人と会い飯をおごってもらいながら当時の道楽そしてエヴィスの破竹の勢いとともにハンパない仕事をまぁいろいろと見させてもらってきた。そしてついには松本さんが、藤原がエヴィスの社長に就任したりするところまでそばで見ていて、それはそれは寝る間もなく働き続けていた二人の姿、疲労困ぱい感はハンパなく僕にも伝わりついに限界に。そしていよいよブライトリバーの誕生となるわけである。
「仕事以上に気が合うから」。もちろん好みもさることながら笑える部分もとても合ってたのかすごく仲良しになって特に僕が体を壊しバンドを抜けて大阪へ戻ってからGo-Phishを立ち上げるまでの「とんでもなかった人生最悪の数年間」はこの二人や当時船場で毎夜集っていたエヴィスのスタッフ・役員の皆さんにはとてもお返しできないほどの恩をいただいている。おそらくまる2年ほどは、会えば僕の昼飯は松本さん、僕の毎夜の晩飯代はほぼのりかやSさんたちが払ってくれていたのだから…。「ええよ、にいちゃん!」と当時働きもせずすさんでた僕の心をわかってたかのごとくとても優しくしてくれてた。*ありきたりの言葉ではなく今こうしていられるのは本当にこれまで出会った皆さんのおかげなのであります。そしてなんと当時激貧だった僕の嫁さんとの初デートはもちろんいきつけの船場。そこにはもちろん仲間がいて「なっ、にいちゃんめちゃええ男やから付き合うたってや!」っとしつこく迫り最愛の嫁さんとのキューピット役も藤原なのである。相談すればまずは面倒くさがりその後すぐに動き出す独特のスタイル(笑)。プラスチックあかんやろ?っと言いながら「パプアンバス釣りに行くから」っと出来立てのリップルポッパーGPで釣ってきてくれたり、「メキシコ行くー!」っと言って僕のチャグバグででかいバスを釣ってきてくれたりする優しさ。ひねくれてるわホンマ(笑)
34歳ごろから釣りメディアに登場しはじめた僕は、36歳でGo-Phishを設立。当初事務所の一角を無償で貸してくれて初歩からパソコンを教えてくれたヒヨコの山科くん、スポーツ&フィッシングニュース萱間さんに僕を紹介してくれた松本さん、そして初のロッド11B、TheSpotKingの冠やヤックパックのマークを作ってくれたのが藤原。(その前に作ったオープン11か月で閉店したバー(自称トラットリア)の内外装も藤原)。その後現在へとつながるタックルハウスとの繋がりをつけてくれたのはそのころ多くのイベントを企画してくれていた当時サンスイ町田店の店長だったノーバイトのなべちゃん。皆さん本当にありがとうございます。
二人がブライトリバーとなった後でもよく飯を食いに。座った直後にとりあえずチューハイを5-6杯、あてには「ひと瓶なくなるんとちゃうか?」というくらいの一味をかけ、最後は焼うどん。帰っても夜はあまり寝ずに仕事。大量のデータや仕事をこなすのに当時から最も小さなノートパソコンだけを使い止まらずタバコを吸う。呼びに行けばほぼ必ず付き合うのに「ウチ来いやー!」っというと「遠いから嫌や」と絶対来ない。そんな藤原を笑顔で見続けるひとみちゃん。いかにもな職人気質。梅田のタワーマンションに越してしばらく、体調を崩してからは愛犬ポンちゃんと3人いつも仲良く平和に暮らしていたけれどその後はどんどん体調は悪化してお決まりのうつにもなったりして入退院を繰り返して、それでも関係なく引っ張り出してはきよみやタイ料理屋で飯を食い…っとやってたけれどこれでもうおしまいかと。ひと言でいうのは誠に忍びないが松本さんも藤原もとんでもないセンスを持っている。山根さんが呼んだのだからもちろんではあるが今もその随所にセンスを感じる。こんな男まぁおらんわなと改めて思います。
何せ昨日の今日。悲しみは抑えて僕は前を向くけれど松本さんにはふんばってがんばって欲しい。長年ずーっと友達ながらようやくここ最近になってさらに広がってきたそういう意味の海の釣りの価値観やGo-Phishの世界観もさらに伝わり続けているおかげでブライトリバー=松本さんとのコラボモデルも自然に作れる様になってきたのだから。どんどん行きましょう松本さん!
僕が言うのはおこがましいかとは思いますが、ブライトリバーやGo-Phish。もしこんなブランドが無くなれば日本の釣りの世界はとんでもなくつまらないものになります。ブライトリバーもといえば叱られるでしょうけれど、規模も小さくできないことも多いし、何せこんなおもろい人間たちがやっているので些細な、時には大きな間違いもあるかも知れませんが、このセンスに関しては誰にも負けませんので。見様見真似で横入りするブランドやただただ流行り物を売りたい人達とは根本が違うわけですから何しても負けません。皆さんもどうぞこれからの僕たちの行動を見守って応援してください。どうぞよろしくお願いいたします。
僕も今年で55歳。おかげさまでGo-Phishが軌道に乗ってからは穏やかで刺激的な毎日を過ごさせていただいていますがちょうどその軌道に乗り始めたころから「いつ死んでもいいや」っと本気で思っています。ごくごく個人的な意見ですが「人間そんなに長生きしなくてもいい」と思ってます。何のとりえもつてもない一界の小市民の子が必死に社会に出てトライし大失敗や周囲に迷惑をかけながらもなんとか人並みに生活できる様になれて今ではうれしい限りです。たまたまの運かもともとの性分なのか思ったことはやりきるという精神があったからかと思ったり今ではしていますが自分が必死に走っているから周りのことなど気にせず気にならず今も自分の釣りや音楽のその先だけを見て生きて居られています。なんと幸せなことか?人が死ぬことはとてもつらいことではありますが同時にそれは仕方のないこと。今回の藤原のこともいつものごとく「まぁしゃーない」っと自分に強く言い聞かせその後の日々を過ごそうとしています。
最初に友人と呼べる同世代が無くなったのが41歳、宮崎のかんみくん。ただただ宮崎によく遊びに行きだしてただただ仲良くなったかんみくんの突然の死。この時は泣きました。そしてタックルハウスの恩田氏。同い年。何ともな寂しさ。そして数年たって宮崎のマツダマサヒロ驚きとショック以外何もなかった!そして大阪で急速に仲良くなってよく一緒に遊んだいときん(僕より全然若い)。その後にまた宮崎のみっちー。当時の僕にとっては全員が「まさかの」っという状況。それぞれ持病があったり突然の死ではありましたが僕に見えるのはみんな自分以外の何かのために頑張りすぎてたかなと?…当然僕も同じ種なのでよくわかっているつもりです。
とんでもない時代に入っていますが、人が生きるということには変わりはなくその道筋も普遍的です。いま自分に不安がある若い皆さんへは賢く生きるなんてことはあまり考えないでほしいと思います。「やってみてだめなら死ぬ。死んだら終わり。」これ僕の信条です。そのかわり思ったことに邁進し、やめず恐れずくじけず、少しだけ頭を使って突き進む。賢さは必要だけれどずる賢さやセコさは絶対NG。自分に噓をつくと何事も絶対に実現はできません。そしてやってきたことに文句を言わない。人生は計算できないからこそ面白いのであります。だから自分に不安があるのなら釣りでも音楽でも身を削るところまでやってほしいと思います。安全なところから見ているだけの連中には決して得ないものがそこにはあります。だから僕も死ぬまで何か頑張ります。
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